ファミマ、「はだいろ」下着回収 表記不適切 …… どこもかしこも揚げ足時代で本質にはほど遠い。

時事通信社の記事である。「はだいろ」というのは肌色、膚色と書く。一般に日本における赤黄色と呼ばれる色が膚色であるが、薄黄色などと今は呼ばれるらしい。実際は赤黄色である。そして、小麦色も膚色の一つであるが、黄色や茶色に近くより日焼けした皮膚の色を表現する際に使われる事が多い。

はだいろがダメだと、今後文学表現では小麦色というのも使い難くなるだろう。黄色、黒色、白色など人の肌の色には差があり、日焼けしてもメラニンの分泌量はあまり変わらない人もいるし、元々黒色系の人種だと黒っぽい肌の色だからである。本来は、そういうのはあまり目くじらを立てる話でもないのだが……。



<揚げ足取り時代>

これは、昭和以前の昔から起きているとされることなので、これが特別な話ではないのだが、蔑称、軽蔑に使う言葉というのは、昔から定期的に取り締まられ、使われなくなってきた。ただ、今はそれが極端に増加しているようにも見える。いやこの30年で徐々に漸増してきた感じだろう。100年に1つ2つが、50年に2、3になり、5年10年に3個ぐらいになり、今では毎年いくつか出てくる。

多くの人は、それを蔑称として使っていないのに、一部が声を上げるとそれで使えなくなるパターンだ。

そうなる理由は、とても単純だ。蔑称に使う人は、何でも蔑称にするからだ。あいつは頭が良い秀才だという言葉でも、虐める側からすれば、「秀才」という言葉で軽蔑することは出来る。受け手が虐めの時にそういう呼び方で呼ばれていると秀才=悪い、虐められるタイミングとして記憶、経験が蓄積されるからだ。

そういう人がもしも、世間に一定数出てきて、秀才と言われるのは心外、虐めの言葉だという状況になれば、秀才は使えなくなるかもしれない。
今はSNSで繋がっている時代なので、全体の違和感を感じる総数が1%でもそのうち0.5%がSNSで発信する側で、あまり意識しない層が殆ど発信しない層なら、0.5%の方が勝つことになる。その結果、急速にこういう言葉の変容が起きているのだろう。使っている人の多くは、これを悪い言葉になり得るとは誰も思わないため、ダメと言われて考えさせられると、そういう受け取り方もあるのだと理解するからだ。

しかし、それが本当に良いのかは考えておくべきかも知れない。
なぜなら、上記したように悪い表現の仕方をする人は、どんな言葉でも虐める相手に対して、刃となるような言い回しで使うからである。その悪い相手が使う言葉と、周りの人が常日頃から使っている言葉を、同じだと思わないで、それがもしかすると評価や表現としてそれぞれに好ましい印象を与えてくれる場合もあるのだと思える社会であって欲しいと思う。

本来はそういうことをしっかり教育して行くことが大事だ。言葉は、同じ言葉でも悪いイメージを与えるような行動とセットでその言葉を使えば、相手が傷つくこともあると諭すことが社会に求められる訳だ。そういう教育を続けて行かないと、言葉はどんどん失われていくだろう。表現の幅も狭まることになる。
昔は、学校の道徳教育などでこういうのを教えていたはずで、誰もがそれを知っているはずだが……変わってしまったのかも知れない。


<企業や組織、個人もその意図が無かったなら単に逃げてはいけない
               それらを批判する側も相手の言い分を確認すべきである>

SNSでの多数やネットでの多数は本当に世間の多数なのか?というのは、ここ数年で良く言われるようになった現実だ。
日本で、私のようにネットで記事を書いたり、オープンに自分の意志で長期間言葉を発信する人は、全体の7%未満とされる。
クローズドのSNSで友人と会話するのとは違って、ネットでの発信というのは大半の人がしているようでしないものだ。年に数回程度の情報発信や投票などでさえも、多くても15%を下回ると言われる。もちろん、クローズドでメールやSNSのグループ発信を使っている人は多いだろうが、実際にネットでの発信を継続する人は少ない。

なぜしないのかというと、主張するというのは決して楽では無いし、誰でも簡単に続けられるものではないからだ。恐ろしさも必ず付いて回る。ネットでは下手な発信をすれば恨まれもするかも知れない。そういう場だ。

だからこそ、その反応が全てでは無い。あくまでそれに共感する人が多くても少なくても、それを見ている人が同じような感覚の持ち主の集まりだっただけかも知れないし、それを否定する人が多いのは、単純に否定する人の集まりの目にとまっただけかも知れない。

だから、冷静に受け止めて自分達はどういう意図でこういうマーケティングや発言をしたのかを発信することが大事だ。
もちろん、謝罪をすることも大事だが、説明することを諦めて単に取り下げれば良いと思ってはいけない。説明した上で納得の言葉が多いなら、続けられる手もあるだろう。


今回の場合は、難しいところだ。
日本でも他人種が暮らすようになり、小麦色の肌とか、はだいろとか言っても色白もいれば、色黒の人もある程度いるような社会になってきている。
30年ぐらい前なら、外国人を見ればおっ外国人だと、小学生や中学生がアイアムアペンとか言っていた時代が、今では他国の人もアジア、欧州、北米、南米、アフリカ、オッセアニアなどから多くやってくるようになり、定住している人も多い。そうなると、それが蔑称だと思う人もいるかもしれない。特に、商品だとはだいろと言われても、自分の肌の色と違うなら、変な色だと思うだろう。それが、違和感になるのだろうと思われる。同じ日本人でも、色黒の人や色白の人がいるので、はだいろと言われても困る人もいるだろう。そういう点では、商品には使いづらいため、そういう売り方をするのは好ましくなくなっていくのだろうと思われる。

但し、これは商品として色が決まっている場合の話だと私は思っている。

少なくとも文学や音楽でははだいろは今後も残した方が良いと私は思う。何故かというと、はだいろ=自分の肌の色をイメージ出来るからだ。
白色の肌なら、白色の肌の人をイメージし、黒色なら黒色の肌をイメージする。それは、自分を視点にした物語や詩を空想できることに繋がると言うことだ。

ここで言いたいのは、一概に差別用語だと思ってはいけないと言うことだ。
TPOによって言葉は表現の幅を広げ、空想や考えを延ばす切っ掛けになることもある。逆に、人に不快なイメージを与えて畏縮させたり、傷つけることもある。大事なのは、それのどこが悪くて、どういう使い方なら許されるのかをちゃんと伝え意識させることである。

ただ、この表記はダメ(全部ダメっぽい印象)ではなく、全体から見て何がどういう状況だから、不適切だとなったのかを明確にしなければ、結局揚げ足が広がり、何を表現するにも、文句を言う人が出てくるようになり、結果的に皆が言葉使いに苦慮し、疲弊していく社会になるだろう。

これは、非難している人もしていない人も、単純に良い悪いではなく、これをやり続けた結果がどうなるかを考えないといけないことである。



























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