今日も暑いが平和な日であることの幸せ……広島原爆投下から75年。

今日は広島に原爆が投下されてから75年である。世界最初に使われた核兵器がこの広島だった。この原爆は、長崎で使われた物とは違うプロトタイプ(ガンバレル型)と呼ばれるもので、信管の安全性に問題があり、その後このタイプの戦術核兵器は少量の研究を除いて開発されることは無くなった。

何せ、ガンバレル型は衝撃を与えるだけで、炸薬点火する恐れがあるからだ。普通の砲弾ならともかく、戦略核と呼ばれる大量破壊兵器では、輸送時の問題などで自軍や自軍の基地で事故が起きかねない。そして、この兵器は事故=基地の壊滅になる。

だから、廃止されたのだ。まあ、米国等の連合国にとって見れば、広島長崎とマンハッタン計画での突入試験の結果が、余りにも悲惨だったので研究を早めに止めたというのもあるのかもしれない。(計画当初、アインシュタインなどこれに関連した物理学研究者も何十年と続く放射線被曝まで予想していたわけでは無かった。)もう少し研究していれば、ガンバレル型でも危険性が少ない爆弾型の安価な兵器は作れた可能性はあっただろうから。


それが分かったのは、マンハッタン計画中の試験で行われた軍人の突入試験後(戦略核兵器のプロトタイプを爆破した後、突入するというという実験)に、原爆症が出たことである。ただ、この中でどれだけの人がどうなったのかは、今でも全て公開されているわけでは無いはずだ。因果不明で後(短期間)に亡くなられた人も多いという話は、何度かドキュメンタリーなどで出ているが、。あくまで、合衆国に属する軍属の話なので、軍の機密を漏らすのは有罪だから因果をどこまで証明するかは難しいのである。

ただ、当時の武器としてはとても良好な成果はあったから、米国からすれば当時の敵国である大日本帝国(後の日本国)に対して使われた。それだけのことだ。

それが、結果的に今も平和式典を2カ所で行われるほどに多くの犠牲となり、その脅威は明らかに段違いだったと気が付いた。まあ、米国では長年その話をなるべくしないようにしてきた訳だが……。冷戦の終結で原爆が戦争を終わらせたという良いイメージは世界でも、徐々に少なくなっていたのは、ある種毎年式典を開いてきたからこそである。この長い時間の間続く、式典という努力はとても意味があり、効果があったのだ。これからも、それが続くことが大事だ。


では、原爆の爆心地では当時何が起きていたのか?
まあ、草木も生えぬ75年にはならなかったが……。それほど何もかも焼き尽くせるわけでもない中で、キノコ雲の下では、もっと地獄絵図のような悲惨な光景が広がっていた。

まるで亡霊が歩くかのように、腕や体の外皮がめくれ熱で溶け膨張し膨れ上がりそれが、垂れ下がった人が大量に歩く姿が目撃され、顔に何かの破片が刺さった人が水をくれと弱々しく声を上げる。防火水槽に顔だけ付けて亡くなる親子や大人……。既に遺体が水に沈んでいるのに、さらにそこに水を求めて突っこむ人々。

焼けなかった地域では、水が欲しいとやって来た人に水をあげればすぐに息を引き取るのは、そもそも、水が飲める状況にないほど酷い熱傷を負っているからだ。飲めばその刺激だけでショックを起こし亡くなると後の研究で分かっている。他の痛みなどがあるはずなので、水で感じることはもうないともされるが、実際にどうなのかは亡くなれたご本人にしか分からない。

後に、これ(助けようとしたのに助けられなかったこと)がトラウマとなってしまった被爆者も多いことが今の研究では分かってきている。

彼らの多くは実はそれをやったことに対する負い目があってなのか、生涯それを他人に語らなかった人も多いとされる。特に、記憶が鮮明で責任感を持つ大人(子供の場合は、後の経験などから内容が変わりやすいため)の証言は殆ど得られていないはずだ。何故って、例えば爆心地近くで水を与えたとして、飲んだ事で安らかになったとは限らない。映像やお話では基本的にそうならないように演出されているし、そもそも語る人も、記憶の中で比較的語れる内容を選んでいた人も多いはずだ。罪悪感とはそういう無意識に自分の罪を少なくしたいと思う衝動に動かされてしまう。

亡霊のように歩く人を、亡くなった子供を背中に負ぶったまま歩く母親らしき人を見て、良い気持ちはしないだろう。
日頃、頻繁に人に対して、「死ね」とか言ってしまう人でも、実際に自分が起こしたわけでもない惨状を目の辺りにしてしまえば、きっと一生のトラウマになるだろう。そこにきれいごとなど一つもないのだ。お話では綺麗にまとまるけれども……。今のコロナを考えれば分かるだろう。いつ終わるか分からない感染症の中で、後から見ればどこかを切り取って、お話に出来るかもしれないが、実際に現実の中で苦しんだり、経済活動を止められたりすれば、その瞬間の感情のもつれというのは、今考えていることと後から整理して考えることでは変わるのだ。纏められるならば……。

原爆や戦争の多くにおける現実は……纏められなかった人が多かった。後の平和な社会で、戦争や原爆の話を口にしないように、閉じたのだ。
大の大人の多くが、口を噤んだのは、それほど生き死にの瞬間が壮絶であったということだ。ただ、その時に死ぬ側と生きる側の線引きがその瞬間その場所によって、隔てられただけだ。彼らが出来ることは無く、罪悪感などを感じる責任などなかったとしても……その罪悪感や自分が生きている事の意味に呵まれた人は多いだろう。

さらに、被爆の闇は続いた。
日本の広島長崎でのGHQの調査で分かってきた放射線被曝とケロイド患者の実態から分かったことだ。例え、軽い被爆でも、放射線被曝をすると造血幹細胞や幹細胞が癌化したり、機能を失うため、急速に弱り死んでしまう人や、かなり後になって癌を発病する人、甲状腺障害を発症する人も沢山いた。これを総じて、原爆症と呼んだ。

中でも、日本では昭和の30~40年代頃には語られるようになった。平和の子(佐々木貞子、折り鶴の少女などとも言われる)のお話は、千羽鶴(せんばずる)で願い事が叶うという逸話(いつわ)を日本中に広げるほどに、広がった。まあ、これが千羽鶴の切っ掛けだと既に知らない人も多いだろう。

彼女は原爆症による亜急性リンパ腺白血病を戦後に発病した。尚、元々、この貞子さんのお話(実話)が世間に出回るまでは、千羽鶴で願い事が叶うわけでも、平和になるという逸話もない。

彼女の家族(兄)が、鶴は千年、亀は万年という長寿の象徴である鶴に思いを馳せて、彼女を励まし、彼女が少しでも長く生きられるように、回復して欲しいと願って、折りはじめたのが切っ掛けである。それが、彼女の同級生などに広がり、当時の報道機関がそれを知ったことで、広まり日本中、果ては世界中へとこの話題は広がった。

そして、折り鶴の少女として平和の子として彼女の像は、平和記念公園に建立され、鶴が平和の象徴と平和のための架け橋として、そして、医療における励ましの道具として、願いを叶えてくれるものとして、広まった。

1945年(昭和20年)8月6日は晴天で晴れていたという。だから、原爆は広島に落とされた訳だが、曇っていても、予定地を変更して落とされただけである。悲惨な結末を当時に戻って回避することは出来ないし、例え広島で出来たとしても、次の標的が小倉などに変わっただけだろう。(長崎は小倉から変更された)その時代より未来に生きる我々には、過去を変えることは出来ないが、未来をつむぎ、先のどこかで、別の場所で起きるかもしれない同じような結末を回避することは出来る。

それを、忘れずこの記憶、歴史を大事にしたいものだ。


今は、以下の様な若い人でも、原爆の日のイメージが出来るSNSでの当時の日記連動企画なども行われている。

しかし、既に当時の現役世代(20代~40代以上)の人は生きていない人が多い。生きていても、頭がクリア(正常)な人は少なくなりはじめており、認知症などの患者や施設療養をしている人も多い。それぐらい風化が進んでいる訳だ。

これは、たった20年前後しか経過しない震災や、10年足らずの震災でも言われることだが、大人がその事実を、辛かったことをちゃんと喋って残さないと、後の世にその脅威は必ず戻ってくるということも意味している。そして、それより後しか知らない人は、今その世代がいるうちに、その人の苦労を聞いて、本当に何があったのか、きれいごとではない本心(本当に心に秘めている闇の部分、何故いままで言えなかったのかという部分)を時間を割いてでも聞くことが大事だ。

それは、今回のCOVID-19/SARS-CoV-2の話もそうであるし、下手をすればこの先の戦争に繋がるかも知れない芽にも言えることだ。
そうならないためにも、歴史を学ぶことを忘れてはいけない。入り口は、SNSからでも良い。しかし、興味をもったなら、もっと何があったのかを自分で調べて、時には訪ねて学習して欲しいと思う。

まあ、訪ねるにはコロナの収束が必要なので、ネットで調べるとか、原爆関連の本を読んでみるでも良いかも知れない。








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