イスラム国に思う社会の反応
たとえば下を見て、正しいかどうかは別として、仕方が無いことであろうと思う。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150207-OYT1T50110.html?from=ytop_main1
下を見て思うのは、当たり前のことである。子供で無ければ、だれでも何をするにも責任が伴う。
それが、命をかけているか、それとも実際に責任問題にならないような微々足ることかという違いである。人生はすべて責任の連続であり、その責任が自分以外の誰かに降りかかるときに、それがその人に悪いと思えるかなどといった面もある。もちろん、人に言われたから辞めていても成長はないという点もあり、そのバランスを問われるのである。そもそも、これは質問として不適切な気がする。
どんなことでも、最終的には大人であれば、自分が責任を取るのである。もし設問とするなら、政府が悪いか、ISIS/ISILが悪いかといった話になるぐらいだろう。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150207-OYT1T50100.html?from=ytop_main3
最近はこんな話も出ているが、これは表現の自由や出版の自由と言ったことを、金にする行動である。
これにも賛否あろうが、私はこれには同意できない。理由は単純で、自分の利益と日本では大半のイスラム教の人が、過激な思想を持っていないと思われる中で、不和につながるものを出版するのは、社会の軋轢にもなり得ることである。差し止めは難しいかもしれないが、あまり売れないことを祈る。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6148788
たとえば、以下のニュースはどうだろうか?
見るべきという人もいれば、そうではないという人もいる。毒される人もいるという意見もある。この映像は確かに恐ろしい映像であった。私自身は、過去に撮影された実写の戦争フィルムなども見てきたので、この映像がどういうものかという点で見たが、彼らは恐怖政治の体現を目指しているとしか思えない映像で酷い映像であった。(誰でも見て良いものではない)
これらを、すべて読んだときに、思うことが1つあった。
これらに付随するTwitterを見るとよく分かるが、ほとんどが、ノーとは言わず正しいという認識を持つ。それは、社会の安定や繁栄に悪影響を与えるテロ集団だから、正しいのである。ただ、批判的な意見に対して、差別的な意見があるのは、不味い。また、これに付随して憲法は改正すべきとか、旅券返納命令を多用して良いのかといった点は、考えるべきことのように思う。これらは、たまたま今回はそう思ったのであるが、下のような例もあるのだ。
http://powerpro.at.webry.info/201502/article_12.html
結局のところ何が言いたいかというと、皆で正しい内容の反復と同意を繰り返して結果的に、違う意見を差別で叩く土台ができているようにも感じる。これまでもそうだが、特に政治や政策については、その傾向が強くなりがちである。
下の内容はご存じだろうか?これは、少し古いデータだが、知恵袋やOKwave、教えてgooで質問や回答をする人は、全体の2割で、残りの8割は参照のみである。即ち、そのサイトで8割の人間は、私のようにオープンな主張することはないのである。
http://ascii.jp/elem/000/000/906/906958/index-2.html
それらの人は、社会の意見を主張することは少ないが、逆に言えば人の意見を見て自分の意見を、見極めることも多いはずで、その中で悪い影響を与えるのが、否定の仕方に差別を加える書き方である。これが、Twitterで顕著になっている部分でもある。
少数派の意見でも意見は大事である。それを、○○人など人種に準えたり、宗教に準えたり、右翼左翼と簡単に決めつけることが最近は増えている。結果的に、そういう意見の書き込みが劇的に減少する傾向が見られるのではないかと、最近思うようになった。そういう考えを持つ人は、できればこの機会に考え方を改めてほしい。もっと、自分の考えはこうだから、やはりこうあるべきだと思うという主張に変えてほしい。
これは、ISIS/ISILが周りの社会を十字軍と準えるのに似ている。結局のところ、味方を多く作り敵を倒すという名目は、人々の同意を得やすく、連帯感という快感につながりやすい。そのキャッチフレーズに分かり易いたとえを使うのは、戦術的に上のものが使う手法なのである。
ただ、実際に上のものは、残る方法はあまりとらない。やるのは実働部隊の一部で、メディア戦略などでそれを頒布する。それに感化されたものが、影響を受け広めるのである。
要は、○○人とすることで、中の詳細は詰めていなくとも、そうだなと思う人を集められる吸引効果があるのだ。結果的にそれで見かけ上の弱い束ができるのである。これが、政治でも多用されている○○党合流の原理である。
それを利用する少し賢い人がいれば、世論はなびくのである。詳細に協議をしないでくっつく人を、どんどん寄せ集めれば、大きな団体になる。それを、一番上のものが利用することで、組織や意見がまるで一つに纏まった大きな意見であるかのように見せるのである。
これは、下の図を見て貰うと分かるだろう。今回のイスラム国についてのみ、考え方が同じグループを色だとしよう。
□で囲った赤のグループが最も強いが、彼らの細かな意見や他の分野の意見は皆違う。細かな意見では△さんが、多いが彼らはそもそも色が皆違う。だから一つのまとまりは作れない。しかし、赤を束ねる人が賢ければ、とくに私のように、人の心理を読もうとする人を除けば、比較的単純に作用を受けるひとを、コントロールして支持を広げやすいのである。
そして、それらを使うことで、中にいた人たちが予想していない結末を生むことも容易になる。しかし、集団の中にいるものの多くは、赤までは考えが一緒と思っても、その先はそれとつながっているとは思っていない。
というのが、最近よくあるパターンである。
民衆の一方への高揚は、その上で指揮するのもには蜜であるが、その高揚が徐々に平静に戻ったときに、違う局面で悪化することもある。私はこれは支持するが、ああいうやり方は、こっちに変えた方が良いという意見は誰にでもある。結局、イラク戦争の後に(戦争の大義である生物化学兵器は無かったとされる)、ISIS/ISILが生まれたなどの話もよく言われるが、全面的に皆が同じ意見になることなど本来はないのである。
だが、ネットが多用される今、それぞれの意見はショートメッセージで交わされることが増え、意見を○○という考えにまとめてしまう人が増えている。(だから、私はBlogを始めたのだが・・・)
そういう点を踏まえて、同じことの繰り返しが起きないように、これに対する意見は、こうだからこう感じる。あれはこうだと、明確に考える努力が必要になりつつあるのだ。
その中で、少数派の考え方を排除せず、お互いに「それだと、ここがこうなるから、私は賛同できない」など、お互いの欠点を、徐々に減らしていくことで考え方がより高度に昇華していくのである。結果的に全体の改善が進むのである。まあ、人の性格などによる得手不得手もあるので、必ずしも上手に推移するとは限らないが・・・。
要は、Yes/Noではないのだ。自分のスタンスが見えない(相手を否定するだけの)Yes/Noは、右翼でも左翼でも、主張者でもない。単なる誰かの意見のオウム返しであり、彼らは○○だということは、旧来からある右翼や左翼よりも、不味く最終的に、自分が少数派になると、おまえは、○○だと言われる理由にもなり得る。要は、自分自身が損をする可能性もあることに気をつけてほしい。
ISISの問題は、
全体として、短期的な視点が多く、中長期でどういう影響を与えるのか、それを報道することで、何を考えてほしいのかが、よく見えないものが多いと感じる。悲しいとか、彼はどういう意思だったというのは、個人的には裏目に出ているように見える。後藤さんは、きっと悲惨さと人道支援を伝えるために現地に行って亡くなっているが、では今からそこに行ってそれを伝えて・・・この国や世界は、平和をより理解するのだろうか?
そうではないだろう。むしろ、また捕まりまた殺されれば、今度はもっと大きな何かを失うかもしれない。
正義や平和は、その言葉で救いがあるときに、初めて成り立つ。
しかし、混沌とした地ではそれ自体が存在しない。報道の使命感で行くのではなく、それによって世界がどう良い方向に変わるのかを一つ一つ考えて、ものを見てほしい。それは、報道に限らず、私も含め、それを見つめる社会全体に望まれることなのではないだろうか?
そう思う今日この頃である。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150207-OYT1T50110.html?from=ytop_main1
下を見て思うのは、当たり前のことである。子供で無ければ、だれでも何をするにも責任が伴う。
それが、命をかけているか、それとも実際に責任問題にならないような微々足ることかという違いである。人生はすべて責任の連続であり、その責任が自分以外の誰かに降りかかるときに、それがその人に悪いと思えるかなどといった面もある。もちろん、人に言われたから辞めていても成長はないという点もあり、そのバランスを問われるのである。そもそも、これは質問として不適切な気がする。
どんなことでも、最終的には大人であれば、自分が責任を取るのである。もし設問とするなら、政府が悪いか、ISIS/ISILが悪いかといった話になるぐらいだろう。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150207-OYT1T50100.html?from=ytop_main3
最近はこんな話も出ているが、これは表現の自由や出版の自由と言ったことを、金にする行動である。
これにも賛否あろうが、私はこれには同意できない。理由は単純で、自分の利益と日本では大半のイスラム教の人が、過激な思想を持っていないと思われる中で、不和につながるものを出版するのは、社会の軋轢にもなり得ることである。差し止めは難しいかもしれないが、あまり売れないことを祈る。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6148788
たとえば、以下のニュースはどうだろうか?
見るべきという人もいれば、そうではないという人もいる。毒される人もいるという意見もある。この映像は確かに恐ろしい映像であった。私自身は、過去に撮影された実写の戦争フィルムなども見てきたので、この映像がどういうものかという点で見たが、彼らは恐怖政治の体現を目指しているとしか思えない映像で酷い映像であった。(誰でも見て良いものではない)
これらを、すべて読んだときに、思うことが1つあった。
これらに付随するTwitterを見るとよく分かるが、ほとんどが、ノーとは言わず正しいという認識を持つ。それは、社会の安定や繁栄に悪影響を与えるテロ集団だから、正しいのである。ただ、批判的な意見に対して、差別的な意見があるのは、不味い。また、これに付随して憲法は改正すべきとか、旅券返納命令を多用して良いのかといった点は、考えるべきことのように思う。これらは、たまたま今回はそう思ったのであるが、下のような例もあるのだ。
http://powerpro.at.webry.info/201502/article_12.html
結局のところ何が言いたいかというと、皆で正しい内容の反復と同意を繰り返して結果的に、違う意見を差別で叩く土台ができているようにも感じる。これまでもそうだが、特に政治や政策については、その傾向が強くなりがちである。
下の内容はご存じだろうか?これは、少し古いデータだが、知恵袋やOKwave、教えてgooで質問や回答をする人は、全体の2割で、残りの8割は参照のみである。即ち、そのサイトで8割の人間は、私のようにオープンな主張することはないのである。
http://ascii.jp/elem/000/000/906/906958/index-2.html
それらの人は、社会の意見を主張することは少ないが、逆に言えば人の意見を見て自分の意見を、見極めることも多いはずで、その中で悪い影響を与えるのが、否定の仕方に差別を加える書き方である。これが、Twitterで顕著になっている部分でもある。
少数派の意見でも意見は大事である。それを、○○人など人種に準えたり、宗教に準えたり、右翼左翼と簡単に決めつけることが最近は増えている。結果的に、そういう意見の書き込みが劇的に減少する傾向が見られるのではないかと、最近思うようになった。そういう考えを持つ人は、できればこの機会に考え方を改めてほしい。もっと、自分の考えはこうだから、やはりこうあるべきだと思うという主張に変えてほしい。
これは、ISIS/ISILが周りの社会を十字軍と準えるのに似ている。結局のところ、味方を多く作り敵を倒すという名目は、人々の同意を得やすく、連帯感という快感につながりやすい。そのキャッチフレーズに分かり易いたとえを使うのは、戦術的に上のものが使う手法なのである。
ただ、実際に上のものは、残る方法はあまりとらない。やるのは実働部隊の一部で、メディア戦略などでそれを頒布する。それに感化されたものが、影響を受け広めるのである。
要は、○○人とすることで、中の詳細は詰めていなくとも、そうだなと思う人を集められる吸引効果があるのだ。結果的にそれで見かけ上の弱い束ができるのである。これが、政治でも多用されている○○党合流の原理である。
それを利用する少し賢い人がいれば、世論はなびくのである。詳細に協議をしないでくっつく人を、どんどん寄せ集めれば、大きな団体になる。それを、一番上のものが利用することで、組織や意見がまるで一つに纏まった大きな意見であるかのように見せるのである。
これは、下の図を見て貰うと分かるだろう。今回のイスラム国についてのみ、考え方が同じグループを色だとしよう。
□で囲った赤のグループが最も強いが、彼らの細かな意見や他の分野の意見は皆違う。細かな意見では△さんが、多いが彼らはそもそも色が皆違う。だから一つのまとまりは作れない。しかし、赤を束ねる人が賢ければ、とくに私のように、人の心理を読もうとする人を除けば、比較的単純に作用を受けるひとを、コントロールして支持を広げやすいのである。
そして、それらを使うことで、中にいた人たちが予想していない結末を生むことも容易になる。しかし、集団の中にいるものの多くは、赤までは考えが一緒と思っても、その先はそれとつながっているとは思っていない。
というのが、最近よくあるパターンである。
民衆の一方への高揚は、その上で指揮するのもには蜜であるが、その高揚が徐々に平静に戻ったときに、違う局面で悪化することもある。私はこれは支持するが、ああいうやり方は、こっちに変えた方が良いという意見は誰にでもある。結局、イラク戦争の後に(戦争の大義である生物化学兵器は無かったとされる)、ISIS/ISILが生まれたなどの話もよく言われるが、全面的に皆が同じ意見になることなど本来はないのである。
だが、ネットが多用される今、それぞれの意見はショートメッセージで交わされることが増え、意見を○○という考えにまとめてしまう人が増えている。(だから、私はBlogを始めたのだが・・・)
そういう点を踏まえて、同じことの繰り返しが起きないように、これに対する意見は、こうだからこう感じる。あれはこうだと、明確に考える努力が必要になりつつあるのだ。
その中で、少数派の考え方を排除せず、お互いに「それだと、ここがこうなるから、私は賛同できない」など、お互いの欠点を、徐々に減らしていくことで考え方がより高度に昇華していくのである。結果的に全体の改善が進むのである。まあ、人の性格などによる得手不得手もあるので、必ずしも上手に推移するとは限らないが・・・。
要は、Yes/Noではないのだ。自分のスタンスが見えない(相手を否定するだけの)Yes/Noは、右翼でも左翼でも、主張者でもない。単なる誰かの意見のオウム返しであり、彼らは○○だということは、旧来からある右翼や左翼よりも、不味く最終的に、自分が少数派になると、おまえは、○○だと言われる理由にもなり得る。要は、自分自身が損をする可能性もあることに気をつけてほしい。
ISISの問題は、
全体として、短期的な視点が多く、中長期でどういう影響を与えるのか、それを報道することで、何を考えてほしいのかが、よく見えないものが多いと感じる。悲しいとか、彼はどういう意思だったというのは、個人的には裏目に出ているように見える。後藤さんは、きっと悲惨さと人道支援を伝えるために現地に行って亡くなっているが、では今からそこに行ってそれを伝えて・・・この国や世界は、平和をより理解するのだろうか?
そうではないだろう。むしろ、また捕まりまた殺されれば、今度はもっと大きな何かを失うかもしれない。
正義や平和は、その言葉で救いがあるときに、初めて成り立つ。
しかし、混沌とした地ではそれ自体が存在しない。報道の使命感で行くのではなく、それによって世界がどう良い方向に変わるのかを一つ一つ考えて、ものを見てほしい。それは、報道に限らず、私も含め、それを見つめる社会全体に望まれることなのではないだろうか?
そう思う今日この頃である。


この記事へのコメント