日本人殺害脅迫 アニメ、音楽、笑点…テレビ番組、配慮相次ぐのミソはそこなのか?

ちょっとこれは、気になった。

この記事の役割は、大学教授のコメントを載せるために書いた記事ではないかと思ってしまった。いわゆる、報道のマンネリによるガス抜きと、放送姿勢に対する批判が増えていることを示しているのであろう。このようにして、民衆に心を寄せているように見せて、少しずつこのネタから離れていくのが、最近の常套手段(定石)だと私は思っている。批判記事っぽいものが出始めると・・・そろそろ、放送姿勢が変化する時期である。
たぶん、少し大きめのニュースがあれば、今後は勢いよくメディアは、離れていきそうである。



Je Suis Charlie(私はシャルリ)になれとは言わないし、私はシャルリのような言論思想も違うと思う日本人的気質なので、そこまでは求めないが、今の日本は、政治や財界を介した言論封鎖が容易にできそうな気がする。


これは、もっと議論されてもよい問題のように感じる。言論とは何か、配慮とは何かということである。
たとえば、国民の大半が巻き込まれるような事件であったり、多くの人がショックを受ける事件で、半旗を掲揚して追悼するなら、自粛は当然である。しかし、今回は、全体的に日常のニュースをかなり減らすような状況で、毎日たいした情報がなくてもこれを放送し、自分たちで撒いた種が、自分たちで芽が出そうだから、配慮したぐらいの話である。

以前は、メディアは一人の人のために報道するものではないという姿勢が随所に見られた。だから、一人やその一人の周囲に配慮することはあまりなかったと思う。強いて言えば、極端に大きな事件ならしばらく様子見ムードはあったが・・・。それでも、やはり自粛や配慮というのはよほどの場合に限られた。

それは、当然である。日本には1億を超える人がいるわけで、その半数近くが配慮は不要と思っているなら、少数に配慮することは、報道の自由を勝手に自分たちで歪めているだけになってしまうことにつながるからである。

そうなると、配慮してほしいと大物が一言言えば、それで配慮がまかり通るようになり、報道は見事に言論の自由としての役割を終えることになる。一般の人で通れば尚のことである。


個人的には、報道する新聞社として、「自粛の行き過ぎに懸念」という内容ではなく、できる限り自粛はすべきではないという、考えにたって行動してほしいと思う。でなければ、日頃からちょっとしたことで、放送は自粛しないといけない番組を人に見せていることを証明してしまうことになる。即ち、見ても価値がないか、人を傷つける番組を日常的に報道していたことになるのだ。

そういう点から考えると、さほど影響ないにもかかわらず、たくさん自粛しなければならないほどの番組やコンテンツの方が私は気に掛かる。そもそも、それは一般的なコンテンツとして適正な番組なのか、そちらの方をBPOで審査すべきではないかと、考えねばならない。記事は、そういうところに踏み込んでも良かったのである。


これは、テレビ局や新聞社を叩いているわけではなく、社会が成熟したこの国で、言論のあり方と質をどうすべきか。
長期的な視点で皆の利益を考え、配慮や自粛という言葉を使っているのか?
それとも単に今、自分たちが嫌な思いをしたくないからなのか?

そのどちらが重視された方が将来にとってよいかを、考えてほしいと、思うからである。


今回は、その人が無事であることを祈ったり、事件で亡くなれた方を連想させることが、自粛を招いているわけだが、それの影響を受ける絶対数に対して、影響を受けない絶対数が何人なのかという点、無事を祈ることや追悼が自粛なのかなど考えるべき点は多いと感じる。


何より、メディアにはTwitterなどにはない重要な役割がある。個人であれば叩かれるのは嫌なことだが、メディアという組織は、過半数の民衆を仲間につけることで、言論の自由が担保される。しかし、一部の民衆への配慮ばかりをしていると、結果的に過半数の民衆からそっぽを向かれることを、忘れてはならない。

基本的に、多くの人が注目すれば、それだけ批判が増えるものであり、圧力(プレッシャー)も掛かるのだ。それに諸事情という理由で、屈したら、その時点でメディアは価値を失い始めるのである。そうなると、配慮は必ず、しっかりした理由(誰に配慮し、配慮することで何が多くの人にとって得になるか)が必要であり、屈するからには、今後もそれに従うということを、民衆に伝えねばならない。


言論の自由は、一握りの人間によって掌握されやすい傾向があるのは、いつの時代でもあることだが、その一握りを、生かすも殺すも、多くの民衆がその味方であるか、敵になるかに掛かっている。即ち一握りがほとんどの国民に支持されなければ、そのものが未来に渡ってメディアを牛耳ることはできないのである。


報道が単に情勢に配慮しで自粛するのではなく、内容のどこが何に影響すると考えたのかを、示した上で自粛を述べた方がよいと私は考える。単に、自粛することが風潮として、良いことに見えるような報道をするのは、いろいろな部分で、力に屈しているように見えてしまう。そして、それは屈させている力が悪いと、報道が逃げる理由を作ることにもなる。(これは卵か鶏かによく似ている)


ちなみに、私は最近はあまりテレビを見ない(ニュースぐらいしか見ないのに、ずっと同じニュースがトップだったり)ので、配慮された番組も見ていないのだが、この記事は、全体的に気持ちよく、専門家の当たり障りのない意見で、終えているのが気になった。最初に書いた、いわゆるガス抜きっぽい記事である。
何を問題にすべきかは書かれておらず、批判が出始めていることだけを、間接的にやんわり書いて、専門家の意見で括る辺りは、新聞らしいきっと秀逸な記事である。


今やあまり良い時代ではないが、メディアが理由を諸事情程度に濁して、配慮をしすぎるというのであれば、それはイスラム国などが入り込む余地をはらんでいる恐れもある。要は、メディアが自分たちの正しさを正当化できなくなる恐れもあるためである。

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