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zoom RSS 尼崎・踏切で押し衝突死 被告の少年、一部否認・・・弁護のあり方

<<   作成日時 : 2016/11/29 09:00   >>

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神戸新聞NEXTの記事だが、このところの弁護士の裁判における弁護のあり方を見ると、疑問符しか付かないものが増えている。彼らは、情状酌量の意味が分かっているのだろうか?そして、裁判長もこんな内容で酌量を判断してはいけない。厳しい判決をするべきだろう。世間一般の考え方と弁護、裁判官の発想はどんどん離れているような気もする。
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201611/0009705117.shtml


<法廷は事件を詳らかにするべき場>

司法がしっかりと整った民主主義社会において、法廷は事実確認と相違点を第三者が判断し刑罰(無罪を含む)を下す。判断は世間一般の考え方と、法における罪に照らして決めるのだ。その際に、大事なのは、えん罪がないこと、被告人が被害者や被害者家族に対して相応の反省があるかどうか、今後同じ犯罪を犯す可能性がある社会の人々に、同様の犯罪をさせないだけの、抑止力としての罰が働くかどうかが重要である。また、正当防衛、過剰防衛に対して情状を与える判断をするのも、この法廷が決めることである。

しかし、このケースでは「少年はいきなり被害者の自転車を押し『怖い』と言ってもやめなかった」としているにも関わらず、「被害者に嫌がるそぶりはなく、承諾があった」という。そもそも、承諾があっても線路に飛び込む承諾などしていたのだろうか?だとしたら、少年は自殺を幇助したわけだが、その場合は最初から亡くなった本人がそれを望んでいたと言えば良いことだ。そうでないなら、承諾があったという話にはならない。

弁護をするというのは、その弁護する人間と真に向き合い更生させるには、どういう罰で折り合いをつけさせるか?また、心からその事件の真相を話し、どういうつもりだったかを語らせることが大事である。そこには、承諾があったではなく、「こんな事故になるとは思わなかった」ぐらいが適当であり、承諾があったという話にすることは異常としか思えない。

単純に、被告人や弁護士が想定問答集に基づき、こう言えば、酌量に繋がると考える原因になるだろう。要は、最も可能性が高いシナリオを演じる劇のようなものだ。こういうシナリオを防ぐには、そういう弁護をする人間を裁判長は見抜き、被告人を厳しく罰するのが妥当だろう。

また、政府もそういう弁護士が増えぬように制度の見直しを検討をした方がよい。昔からそうだったのかもしれないが、少なくとも最近は、裁判のニュースで聞かれる被告人と弁護士の弁論は、舐めているケースが多い。

以下の朝霞の事件では、「男性の首を絞めたのは大声を止めようとしたもので、現金をとろうと考えたからではない」(被告人)と言っていながら、「被告は被害者が気を失ったと思って、金をとってしまった。首を絞める時点で殺意などはなく、傷害致死と窃盗の罪にとどまる」(弁護士)という。妙な話になっている。これが、弁護だとしたら、殺された側の家族は弁護士に対しても、憎悪が生まれるだろう。決して、いい気はしないだろうなと思う。

そもそも、何故大声を出す状況になったのか?・・・また大声に対して、首を絞めて声を止める人は普通はいない。もっと言えば、仮に大声に対して首を絞めたとして、金を取るつもりは無かったと言えるか?首を絞めて気を失ったから、気が動転して金を取ったとか、気を失った後に金を取ることを思いついたというのは、じゃあ何故気を失う(殺す)まで首を絞めて金に目が行ったのか?その説明が必要になる。

そこで、金ほしさ少しでもあったなら、最初から金目当てだったが、証明されるはずだ。もちろん、先に相手が殴りかかってきたとか、喧嘩をふっかけられていたとかそういうのがあれば別だ。まあ、そもそも家に押し入った時点で、強盗か、それに類するものであると見るのが妥当だ。そうじゃなければ、強姦だろうか?即ち、別の押し入る理由が必要になる。そういうものがなく、このような弁護の仕方をしているとしたら、裁判とは何か?弁護とは何か、弁護人って何のためにいるのか?という話になるのは当然だろう。

本来は、殺したことと金ほしさだったことは認めるべきで、その上でお金を求めたら抵抗されたので、首を絞めてしまった。しかし、殺すつもりは無かったと正直に認めた方が、社会的に見れば、情状酌量と更生の可能性はあるだろう。このケースでは不倫の金ほしさのようなので、かなり厳しいが・・・それでも、その方が本来は酌量の余地はある。少なくとも、正直に認めていれば、社会において嘘を付けば、信用を失うという最底辺の原理原則は、弁護士を通じて守ろうとしていることが分かるからだ。
http://www.sankei.com/affairs/news/161128/afr1611280005-n1.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161128/k10010786601000.html


<弁護士は、取り繕った作り話より現実を、裁判官は判例より事実を重んじるべき>

まあ、このような裁判が続くなら、自分が一度弁護した相手が、次に同じような事件を起こしたときに、弁護士の格が下がるような制度を作るのが大事かも知れない。弁護士はあくまで本人が絶対に事件を起こしていないと言う場合なら、それを信用する必要があるが、現行犯で且つ証拠が確実にあり、本人も認めていたなら、現実に起こした事件の解明の中から、被告人が立ち直るに相応しい小さな酌量の余地を探していくべきである。

作り話やこれまでの判例から、こういう言い回しをすれば、酌量される可能性があると言うような、弁護士は弁護士ではなく、ただの弁護屋という虚構作家である。これでは、どんなに立派な司法制度があっても、被害者やその家族は報われないだろうし、社会は腐敗するだけだ。

同様に、裁判官や裁判長もそういう弁護屋に対して判例だけでものを見ないで欲しいと願う。
もし、判例ばかりで解釈されるようになれば、素直に事件を認め、再犯率が比較的低く留まる可能性がある人が、厳しく罰せられ、逆に最後まで弁護人の粗筋を語り、反省もしていないような人が、すぐに社会に戻ってくるという逆転現象も起きかねないのだから。裁判長や弁護士はそれが、どういう意味を持っているか?社会の安定にどう影響するか、その重さを今一度考えてほしいものだ。


司法に関する職務を行っている全ての人が、こういう事例に当てはまるとは私も思ってはいないが、きっと私に限らず多くの一般人が、こういうニュースを見るたびに、何だこの弁護は、なんだこの裁判結果はと、落胆するケースは昔に比べて増えているように思う。もちろん、昔からこういう裁判はあり、たまたまメディアの捉え方、報道の仕方が今のスタイルになったから見えてきたのかもしれないが、だとしたら余計に、ここは改善すべき点である。


人は過ちを犯すものだ。それが、法に触れるほどの事件になるケースは、あまり多くは無いが、人を怒らせたり泣かせたり、喧嘩したり、悲しませたりというのは誰でも経験があるだろう。それを反省することで、我々は次の過ちを犯さないように学習していく。それを積み重ねて社会は高度に成長してきた。その反省というのは、自分の過ちを、別のストーリーに置き換えることでは決して生まれない、現実として見つめ直すことから、始まるのだ。


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