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zoom RSS 青森の中2女子生徒自殺と遺書を考える−大人社会責任−

<<   作成日時 : 2016/08/31 11:37   >>

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この国は、江戸時代には子供の国だったとも言われる。年長の子供が農業で共働きの両親に変わって、下の子や近所の子供の面倒を見ていた国だったからだ。これは、欧米諸国からは不思議な(奇異な)国として見られたという。
これは、戦後間もなくまで日本のどこでも見られる光景だったが、高度経済成長から、バブル期が終わる頃に掛けてで、一部の地方(田舎)を除けば、その光景は絶滅扱いとなった。

今、子供達の社会を支えるのは、大人の作ったおもちゃ(ゲーム機)と、通信機器(スマートフォン/携帯電話)である。子守は、保育士や教員などの免許をもった大人である。場合によってはしつけでさえも、これらが行う。時代は、子育てでさえも、経済資本に飲まれてしまった。

さて本題である。
青森で2016年8月25日午前10時5分に一人の少女がホームから列車飛び込み自殺をして命を絶った。享年13歳であった。その約1週間前にも青森県では自宅で男子生徒(13歳)が首つり自殺をしているが、これもいじめが原因のようだ。

少女が亡くなった事件では、数日前に両親が本人が残したスマートフォン上の遺書の大半が公開された。二度とこういう悲劇が起きないことを願った少女の想いを汲んだ両親が、最後に託した娘の願いを、かなえたのである。決して、両親はこれが最後になることを望んでいなかったろうに・・・。

この全文は産経新聞社が公開された写真を上げているので、一部の消されている部分を除き全てを読むことが出来る。(以下URL)
http://www.sankei.com/affairs/photos/160830/afr1608300006-p2.html


これを読んで思うことは、その同級生達は、こういう結末を予想できなかったのかということと、何故本人の逃げ道は自殺に向かったのかという2点である。前者は、きっと自分達が亡くなった被害者が本当に、追い詰めているとは思っていなかったのだろう。
ここで、最も問題なのは、SNSの存在である。舞踊をしていたという彼女は、それにも参加できなくなるほど、苛められていたようだが、LINEで四六時中悪口や誹謗中傷を浴びていて、それをその都度読んでいたとしたら・・・。自殺してもおかしくはない。結局、大人が生み出した便利な道具を、子供達が人を罵る道具に使ってしまうと言う悪い例である。しかも、彼らにとって無邪気な遊びでも、現実にその被害を受ける子にとっては、家にいようが、学校にいようが、ずっと苛められる現実がある。もし、学校で既に、起立性疾患を患い。その治療を受けていた場合・・・。

それLINEのような常に閲覧できる場所でも、それが起きていたら・・・。もう、生きる意欲を失うのは目に見えているだろう。それぐらいSNSによるいじめは深刻な問題なのである。
http://www.sankei.com/life/news/160830/lif1608300024-n1.html

−苛めは何故起きるのか?減らす方法はあるか?−

苛めは、子供社会にも大人社会にもある。大人社会ではいじめの大半が差別になるが、理由はいくつもある。

協調性の問題によって、利益を害する場合。
その人と自分の意見が一致しない相手同士である場合。
ちょっとしたトラブルから、関係性が悪化し修復不能になった場合。
容姿や生まれなど、同和や身体の欠点を伴う場合。
そもそも、精神的に未熟であったり、何らかの欠陥(極端な差別意識)をもつ人がリーダーになった場合。

などに生じる。特に、5番目が生じると、必ずいじめはエスカレートするが、女性の場合は3番目によるケースも多いという。女性は、母性本能が強いため、協力協調という信頼で培う友人関係が多い。一方で、裏切りと考えられる行動があれば、それが誤解でも、なかなか解けずに、徐々に苛めに進むことがある。

その他の場合で、それらが単独で生じている時には、双方の関係的に険悪でも、実は仲が悪いだけで周りを巻き込んだ集団いじめにはなりにくい。尚、継続して苛められやすい人というのも実はいる。それは、次のような人が多い。


強がる人で、尚且つ大きな発言をする。
自分に優しく他人に厳しい。
頻繁に嘘または誤解を招きやすい発言をする一方で反省しない。
気が弱いまたは物静か。
人間関係が悪化した時に自分が悪いと自覚しなければ決して折れない。


自分から見てではなく、他人(家族でも、友達でも良い)から見て1つ目と4つ目が重なる人は、要注意である。また、5がある人は、苛める側に立つか、または苛められる側になるか、極端な傾向がある。
折れないと言うことは、嫉妬や執着を持ち、相手を責め続けるということだ。即ち、関係悪化に至りやすい。そして、折れない人は相手が、自分以上に頭の回転や、人からの評判が良い人だった場合、周辺からいじめを受け始めることもある。人はある程度その人に対する周りのイメージで相手の善し悪しを判断する。そのため、引き際と攻め際という2点に気をつけなければ、苛めに繋がるのだ。

では、いじめが継続して起きないようにするにはどうするべきかというと、段階は3つである。

1段目は、わだかまりがある場合は、早めに自分から謝罪したり、相手の誤解を解く努力をすること。心身に対する嫌悪の場合は、特定の相手からの理解より、もっと広い視野で理解をしてくれる人を見つけることが先決である。
これらは、できる限り短期間で行わなければいけない。尚、高圧的な小物の苛めなら、一度正論でキレると終わることもあるが・・・それはその人の見た目や、イメージギャップの方向性による。


2段目は、いわゆる警告である。苛められている側が警告すると苛められそうで変な話だが、逆にもっと苛められるなら、それを逆手に取ることになる。警告というのは、泣いてでも、怒ってでも相手に今自分がどういう状況かを伝えるととともに、周りの大人にもそれを訴えることだ。これは、勇気のいることだがやらなければ変わらない。
企業の場合は、内部や外部の労働相談などを利用すると良いだろう。一般に、労働基準監督署などでも、労務に対する問題を聞いてくれる人はいる。そういう相談を利用するのも手である。


3段目は、逃げることだ。学校や会社を休むということ。学校の場合は、それに加えてより大問題になるように働きかけることだ。学校がダメなら教育委員会、市区町村の教育委員会がダメなら、県や文科省とスケールを上げていく。
企業など社会生活の場合は、精神的に崩れる前に、退職して次の職を探すのも大事である。心が死んだら、仕事は出来なくなるだろうから。そういう死なずに引くというのは、人生において大事である。


まあ、それでも苛めや差別で亡くなる人をゼロにするのは難しいかも知れないが、世の中には沢山人がいるものだ。今は、巡り会えなくても、必ず誰かがあなた自身に手をさしのべてくれると諦めないことも大事であり、狭い学校や職場という部分にしかない視野を広げて、そのいじめをしている人より、大人になるのも手である。苛める人は、多様性を理解しておらず一般に視野が狭い傾向があり、苛められる人も徐々に狭くなっていくことがあるのだ。
そこを、ちょっと別の方向に勇気をもって進むのも手である。



−経済面からすべきこと−

スマートフォンやLINEは、大人が経済的な利益や利便性を得るために作った代物である。だから、今後も普及が続くだろうが・・・もし、子供がいじめを受けているなら、親は、そういう問題がないかどうかを、確認し必要であれば、それらの所持を止めさせるという手もある。また、これは本当に大事なことだが、スマートフォンばかりが売れるからと、携帯各社(キャリア)はそればかりを開発するが、GPSと通話専用のベーシック携帯電話程度の製品を利益がさほどでなくても、残す努力はすべきかも知れない。

こういう問題があるときに、SNSコミュニティから子供が離れて安心や安全を、得る手段も提供し続けることは大事である。まあ、これは認知症の患者に持たせる通話機器としても価値がある。キッズ携帯やスマホではなく、利益が出なくても、やる価値はあるだろう。
これらは、人という何よりも代えがたい財産を守るインフラ側のサービスになる訳だ。

これは、社会が考えることかも知れない。そもそも、SNSが無くても生活できる人は、世の中に沢山居る。じゃあ、何故子供の世界では、それが普及しているのか?デジタルネイティブは本当に、子供達の幸せを後押ししてくれるのか?ただ、経済的にこれからを支えるのが、A.Iだとか、IoTだからそれに子供を染めて、これがなければ生きて行けない子供が、これがなくなると困ると言い始める社会は、果たして良い社会なのだろうか?

もちろん、大半の人はいじめもしていないだろうから、無くすべきとは言わないが、SNSやインターネットいじめは今に始まったことではない。いつまでもこれが続くということは、その仕組みに何かしらの欠陥があり、それを持たないという選択肢がなくなりはじめていることも理由ではないと思えてならない。


−苛める側が知るべきこと−

一般に苛めている側の大半は、自分が相手を追い詰め殺すかも知れない現実を知らないか、いなくなっても、自分は何もお咎めを受けず生きて行けると思っている人が多い。彼らにとって、いじめというのは、一種の憂さ晴らしであり、自分より彼(彼女)の方が、レベルが低いのだといった自分の存在感を高める手段に使っているに過ぎない。

そういう人は、社会で上に立てない・・・とは言わないが、もし立っても、後で苦労することだろう。その理由は、人を卑下することで自分を保つということは、逆に言えば自分の栄光に縋り続ける人生しかないからだ。自分の栄光に縋るということは、まるで素晴らしいように見えるが、実は違う。栄光は常に自分から輝くのではなく、周りが輝かせるのだから。

例えば、自分の部下Aさんが、自分より昇進したとしよう。
普通ならば、自分が手塩に掛けて昇進したとしよう、自分も昇進したかったとしても、自分の見る目は間違っていなかったと思うだろう。だから、おめでとうと言え、その後は自分が手塩に掛けたからといった話はしないだろう。それが、相手との信頼関係を保ち続けることに繋がる。

しかし、もしも栄光に縋るなら、確かにおめでとうと言うかも知れないが、私が手塩に掛けたからこうなりましたと、今後も言い続けることだろう。そうなると、その上司になった部下は、いい気もしないだろう。そして、どこかで見放されるはずだ。いじめは、そういう人になり掛かっている人が、行う愚かな行動である。

そういう人は、実は上に上がるほど、年齢を重ねるほど、自分より優秀な人の協力は得られなくなっていく。自分より格の低い人で、自分と同じように人を貶める人が集まるため、一度の失敗で、今度は自分が苛め落とされたり、無視される存在になり得るのだ。

ちなみに、部下Aさんは自分が育てたと言わないもと上司は、きっとAさんにとって信用できる人として、評価され続けるだろう。あの人がいたから、今のAさんがあると思われるのと、自分で私が凄いのだと言い続けるのは、どちらが凄い人に見えるか?考えれば分かるはずだ。

そして、もしいじめを続けるとどうなるかも、人の脳を考えると怖いことに繋がる。

−いじめのエスカレートは麻薬のよう−

苛める人は、相手を叩くことで自分の立場が高いことを示し、それを快楽にする。数名が、グループを作ると、相手を馬鹿にしたり、のけ者にする内容で仲間の関係性を確認するようになるはずだ。
そして、関係性を確認すると安心という快楽がやってくる。しかし、人は同じ刺激を短時間に何度も浴びるとそれに満足しなくなる傾向がある。これは、不快においても同様で、ずっと不快ならその不快になれるという特性がある。

これは、体が持つ正常な順応反応であり、同じ条件がずっと続く中で、反応がずっと続けば、危険察知や行動力が低下することになるからだ。それは、生存能力を下げる危険な状態になる。だから、同じことを繰り返しても、得られる快楽や不快も徐々に下がるように出来ているのだ。

そう、苛めや集団でのリンチなども同じサイクルに入ることがある。要は、最初はただの文句や不満の言い合いだったのが、徐々に誹謗中傷になり、最後は死を連想させる言葉になる。最初は単にごっこ遊びだったのが、徐々にごっこと称した暴行になり、殺人になる。

そして、そこで自分こそがリーダーだとか、自分は彼・彼女より上だという自尊心がより強く焼き付けられる。または、みんなも一緒にやっているから安心といった小物発想が生まれる。一般に悪事における周りもやっているから、自分も大丈夫というのは、ろくな仕事につけないか、もし重要な仕事を任せられたら、犯罪に手を染める恐れがある人の発想である。簡単に言えば、取引先が皆やっているので大丈夫ですといえば、悪いことでもやるということだからだ。これが、いわゆる小物と勘違いリーダーを育てるのである。

思春期頃までに、人はその快と不快から生き方と趣味を定めていくことが多い。そう即ち、苛めるものは、無意識に苛める人や、人を貶めても自分からみて自分が高い場所に居たいというプライドの固まりのような存在に向かっていく訳だ。例え、周りが正反対の評価を下していても・・・。

そして、その周りで一緒になり、リーダーにくっつく者は、自分の意見や判断を持てない金魚の糞になる。社会に出て、重大な判断をする難局で、その悪い癖が出る可能性もある。


<大人社会の責任>

今の社会の大人は、ここまで語らない。いじめNo、いじめはダメ。苛めた者の気持ちになれというのだが、そもそも苛められた人の気持ちというのは、そういう教育を受けたそのときはなれるかもしれないが、実際にいじめに繋がりはじめたときに、自分が苛めていると理解出来るようになるとは限らない。

社員研修で、やっていて思ったのが短い決まった時間で、いろいろ言ってもダメな時はダメだということだった。そして、最終的にその時々のニュースなどを取り入れて、説明することで、若干変わったことは覚えているが、それでも、コンプラ違反はあった。それは、時事のネタから外れた手段が疎かになったということだ。だから、可能な限り、テキストから逸脱せぬように内容を増やしていくしかなくなるわけだ。

これが示すのは、教育で理解していも、経験として苛められたことがない。そして、いじめにもSNS、陰口、身体への攻撃など様々な種類とタイプがあり、今もまさに生まれているということだ。それは、経済(テクノロジー)面で新しい技術が生み出すこともあれば、当人同士の性格の違いなどで生まれてくるもの、場合によっては、両親から入ってくる情報によって新しいいじめのスタイルが生まれるかも知れない。

即ち、今はいじめとして存在していないものでも、1年後には新しいタイプのいじめになっているかもしれない。それがいじめなのである。

本来、いじめを減らすなら、苛めた人はこんな大人になる可能性がある。苛めている人は、こういう発想で見ていて、心理的にこういう方向に進むと言った方が、意図しないいじめは減るだろう。仲直りで終わるかちかち山は、かちかち山ではない。本来は、因果応報が世の習いでなければいけないのだ。

大人社会は、ただ今の経済や社会における問題に対する改善提案をして、ここが悪いという前に、今やっている人々に対して、もっと強くこのまま続ければ、苛めた人がどんな大人になり得るかを、明確に伝えることこそ重要かも知れない。



まあ、喧嘩やいじめは昔からあるものだ。これは、江戸の世でも変わらなかったはずだし、今でも変わらない。

確かなことは、苛められている人の身で考えることは出来ても、苛めているという自覚がなければいじめは止まらない。苛められている側も、苛められている事実を苦しくても、人に伝え親や学校家族に伝えて、そして味方を作って戦い続けないと、いじめから抜け出せない場合があり、それは残念ながら多いのだ。

もし、親が子のそれを知ったなら、学校に行かなければ良いと言った発想だけではなく、解決に向けて自分自身が動くことが何より大事であり、期間を決めて解決を図るのが重要である。もし、その期間で改善しないなら、子が望む望まざるに関わらず、転校やより多くの人を動かすための行動に転じるべきである。


そして、経済も含めた社会が、いじめを受けている人に、手をさしのべること。苛めている人に、現実としていじめを長く続けた時に、どんな酷い結末が待っているかを伝えることにある。単に極刑になるとか、学校の責任が問われるといった話ではなく、苛めている人が因果を受けることと、いじめを受けている人が、必ずこれだけの期間我慢すれば問題が解決するのだと思えることが重要である。

最悪のケースに居たる自殺が、いつまでたっても起きるのは、結局はいつ解決するのか分からず、悲観することにあるのだから・・・。







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