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zoom RSS イタリア中部地震・・・日本の災害対策は進んでいるが・・・報道は退化している

<<   作成日時 : 2016/08/25 08:33   >>

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イタリアアックーモリ(Accumoli)の北西(ペルージャ近郊)で昨日(2016年8月24日、午前3時36分-日本時間午前10時36分)発生したM6.2の地震は、予想以上に大きな被害をもたらしているようだ。多くの住宅や商店が倒壊し、死者は既に120人(AFPBB記事)を超えているという。

さらに、未だに連絡の取れない人もいるようで、死者は増える可能性がある。

http://www.bbc.com/japanese/37172116

今回の地震の規模は、M6.2でユーラシアプレートとアフリカプレートとプレート境界面で起きた地震である。地震の深度は約10kmで、もし直上に住宅などがあれば、深度6強〜7の規模になったと思われる。アックーモリや、ノットリア(Nottoria-震源の北西、ノットリアからみて震源は南東)は、震度5弱から6強の範囲と思われる。

尚、日本でもよくあることだが、地震の規模が大きい場合は、少し離れた場所で大きな震度を観測することがある。アマトリーチェなどでの被害が多いのは飛び地で、高い震度を観測した可能性はあるが・・・そもそも、地面の揺れを数値で示す震度という考え方は、日本独自のものであるため、ホットスポットがあったのかどうかは分からないだろう。日本のように地震計が所狭しと並ぶ国は少ないというのも、それに影響する。


<震度発想を世界に提唱すべき時>

はっきり言って、地震の規模を示すマグニチュードは、大地震かどうかを示すには分かり易いが、揺れがどこにどの程度到達したかを人々に客観的に示すには、役に立たない。耐震設計などをするにも、揺れがどの程度かは、何ガル(Gal/加速度単位)かより、台風のカテゴリのように、スケール規模を相対数値に換算した方が分かり易いからだ。

また、相対数値があれば、建物の販売や設計においても、それらを評価しやすい。
そのため、高品質な安全性をより分かり易く示すことが出来る。しかし、世界では、これが使われていない。

それは、世界にとって大きな損失に繋がるかも知れない。
結局、難しい数字を使えば、耐震補強なども、十分に行われなかったり、中途半端に終わる可能性もあるからだ。
日本は、A.Iなど他国と競争することばかりに力を注ぐより、こういう優れた指標を世界標準にする努力を行い。そういう分野でのプロフェッショナルを増やしていく方が良いと思うが・・・。


災害から人を救う。災害が極力起きないようにするのも、人でしかない。こういう部分こそ、海外に広めるべきだと考える。


<既に100回近い余震発生か?>

余震は80回とBBCは伝えているが、時間もかなり経過しており、既に100回は超えていると思われる。熊本地震と同じで、地下の浅い場所で発生する地震は、深い場所で起きる地震に比べて、小さなマグニチュードでも表面に到達しやすい。しかも、直上の深度はかなり大きくなる傾向がある。以下は、熊本地震の時に書いた図である。直下だと、直上の余震が大きくなりやすい。そのため、断続的に来る余震で、被害が拡大することもあるのだ。

画像


この手の地震は、いわゆる後で本震がやってきた熊本のようなこともあり得るため、今後の余震に警戒が必要となる。本当は、僅か4ヶ月前に日本で起きたばかりだからこそ、もっと日本国内でも伝えるべきだが・・・。


<日本では報道が少ない・・・残念な状況>

東日本大震災や熊本地震では、海外でも相応に報道されたが・・・。日本ではあまり報道されていない。だから、きっと、どこまでこれに対する支援が広がるかは、分からない。私は、昨日はニュースを余り見ていなかったので、知らなかったが、今日になって知った。しかし、今日は、ほとんどのニュースでは、某芸人の息子の方がニュースとオリンピック話になっている。もう情けなくて仕方が無い。ここまで、この国の報道は、堕落しているのかと・・・。

震災時に日本を速報などで報道してくれたから、日本には多くの援助や励ましが来たのだが・・・私のメディア不信はどんどん大きくなっている。


<地震、噴火はいつでも起き得る>

このところ少しばかり地殻の動きが活発に見える。まあ、そもそも20世紀にそういうことが少なかったか、または観測態勢が整っておらず、分からなかったのかも知れない。人の数が世界的に増えてきたことで、どこで地震が起きても、それなりの人が被害に遭うというのもあるのだろう。

ただ、今も昔も確かなことは、天変地異と呼ばれるこれらの現象は、いつどこで起きるか分からないものだ。日本でも、熊本地震が起きたように、明日どこかで起きても、おかしくないのだ。

だから、日頃の備えは大事である。それとは別に、大きな地震が起きた時に、支援を受けることもあるだろうから、他の国や地域でそれが起きたなら、それを伝えて、哀悼や支援を民衆からすることも大事だ。

しかし、それを十分に報道しなければ、結果的にそういう部分が疎かになる。もっと、被害状況を日本は伝えるべきだと思うが・・・。どうも、のど元過ぎて・・・震災の支援を受けたことも、メディアは忘れてしまったように見える。例えメディアがあまり話題にしなくても、日本国民がそういう人にならず、メディアにNoと言える国であって欲しいと本当に願う。


<これ以上の被害がないことを!>

日本も多くの地震被害を何度も受けてきた。そして、海外も含めて多くの支援を受けて今がある。イタリアの被災地にこれ以上の被害が無いことを祈ると共に、行方不明の方々が一刻も早く見つかることを祈り、そして不幸にも亡くなられた方々にご冥福をお祈りしたい。Non perdere al terremoto in Italia(地震に負けるなイタリア)


-かな様-

コメントありがとうございます。今後のBlog記事作成における参考とさせていただきます。

尚、一つ誤解があるようなので、書かせて頂きます。

基本的なスタンスとして言えば、こちらが民間や政府の支援を善意で提供したいと依頼することと、被災地が受け入れ準備等が出来ず断ることは、過去の地震でも何度もあったことは理解しております。支援体制の難しさが浮き彫りになったのは、支援を必要としていながらなかなか行き渡らなかったネパールでも見られました。新潟県中越地震でもいくつかの国から哀悼があり、支援打診もありましたが、最終的に米国からの心ばかりの資金人材支援と民間支援のみを受けています。

コメントを読ませて戴いた限りでは、内容として断られるのだから、支援を打診したりしても意味がなく、押しつけになることを中心に、考えられているようにも見えましたので、この文言の意義について、もう少し書かせて戴きます。

そもそも、金や物だけが人道支援なのでしょうか?
本来災害人道支援は、ボランティアの押しつけでも、ボランティアの受け入れ強制でもなく、哀悼の誠を捧げること。共に出来る協力関係を確認することで、安心して被災地支援をするという意味があります。これが、本来支援の根本なのです。今は経済協力が支援の基本になっているため、皆そちらの方を強く意識しますけど、実はそれより大事なことは、共にいるという心です。

もしこれが、協力関係を持たない領土覇権を争った時代なら、この弱った瞬間を狙って戦争を仕掛けることも出来ました。今では、そういうこともC国の最近の情勢を除けば、別ですが・・・(C国は災害時に露骨な動きはしませんが、他国の弱い部分を狙う傾向が強まっていますので・・・)

病気で長い間休んでいる時に、お見舞いがあれば嬉しいが、彼女も彼氏も友人も誰も心配してくれないなら・・・どうでしょうか?言葉だけでも、メールだけでも来たら嬉しく、元気になると思いませんか?
報道がすべきことというのは、現状を早くからなるべく長く多く皆に伝え、そういう哀悼の気持ち、支援できないが心で支える繋がりを、繋げる仕事も含んでいます。実際に支援募金やボランティア人道支援隊の結成派遣が行われるかどうかは別としても、哀悼を捧げ、その国や地域が何かを求める時に、可能な限りの支援をしますと、伝えることこそ大事なのです。

よくあるでしょう。日本のニュースが世界でも放送されましたと後から、報道されてそれに感化されることが、熊本地震でも台湾は東日本大震災と同じように募金活動をしたニュースはありませんでしたか?それが励みになるということです。

そうやって他国の支援が、被災地に見える報道に繋がることは希ですけど、報道というのは弱っている場所に対して、皆が見て支えたいと思わせる報道を目指す必要があります。実際に行動に繋がるかどうかは別にしても、TwitterでもBlogでも、YouTubeでも心の中でも良い。我々はイタリアの被災地の方々を心配していますよと、伝える人が増えることが実はイタリアにとって励みになることなのです。日本の場合は、低迷しているとは言え未だ経済大国ということもあり、災害時の海外報道も一瞬で行われすぐに哀悼が届くことも多いですが・・・一方で、日本はどうでしょうか?考えて頂ければと思うのです。

報道をするということは、日本人がこれまでのいくつかの震災で、海外から施してくれた支援の輪(物やお金とは限りません)に対する恩返しをするチャンスを広げることになります。

実際に被災地には何もしない(見守る)支援の輪というのもあります。それを励ましといいます。そして、その輪を広げるのは、ニュースで可能な限り状況を伝えるということです。まあ、日本からは遠い国なので、流石に隣国のミサイル発射などがあると、国際報道の時間は減るのは仕方がないですけど、この記事を書いた時は、それ以前の問題でした。今はちょっとマシですけど・・・。やはり、俳優息子の方がニュースとして視聴率が取れますからね。そもそも、ここも視聴率(お金)よりメディアにおける人道支援ボランティアの精神(心)でもあるのですが・・・。それがないということです。


私は、そういうスタンスでこの記事を書いております。尚、個人の金銭支援などは、どの災害でも喜ばれるものです。物によって、断られるというのは確かにありますが、本当に心から被災者を見て支えたいという人の気持ちは、たいてい嬉しいものです。実際に私の住む市でも水害などの被害で多く支援を受けたこともありますから、中には言葉巧みな酷い輩(犯罪目的の人)もいますが、心からの励ましは言葉だけでも嬉しいということは、忘れてはなりません。

大きな災害なのに、報道も僅かに終わると、そういう輪は生まれませんから・・・

ちなみに、もう一つ大事なことがあります。ニュース報道というのは、常に新鮮なものに入れ替わっていきます。そのため、初動からなるべく早く報道をはじめないと、もっと大きな事件や災害があれば、その記事によって、支援が始まる前に、終わることもあります。実際にクライストチャーチの地震の時は、早くから支援や募金をはじめていましたが、東日本大震災によってそれどころではなくなりました。これは、実際に日本が経験した辛い記憶でもあり忘れてはならない話でもあります。今回は、夏のホリデーシーズンでもあり、観光客が巻き込まれている可能性も指摘されています。

最初から大きな被害が予想されるなら、報道はそこに力を入れた方が良いと言えます。
そういうスタンスの記事であることをご理解いただければと思います。

-tommy様-

コメントありがとうございます。メルカリ震度(la scala Mercalli, the Mercalli scale)というのは、以前何かで読んだか、聞いたことがありましたが、海外ではポピュラーだったとは知りませんでした。イタリアで使われる震度で海外ではこれが使われていたというのは、知りませんでした。英語以外の欧州系言語や論文ももう少し読めるようにならないといけないかなと・・・反省しております。

>最近の日本人に大変に強い「自己責任論」が見え隠れするようにも思います


確かに、自己責任というのは日本で良く聞かれる言葉です。海外でも、自己責任は、法的、社会的なミスを犯せばありますけど、災害等で被害を受けている人がいる中では、その責任を追及する前に、周りからすべきは他尊と協調、協力である。責任を追及するのは、その国の中での司法や公権力という発想がありますからね。
それの理解が低いのは、日本と諸外国(主に先進国)の大きな違いかなと思うところはあります。

ただ、私は自己責任論については、人それぞれに考え方の違いはあれど、問題の根本はそこにないように思うのです。何故、自己責任に至るのかの方が深刻な問題なのだと思うのです。

我々人には、世界を俯瞰するにも、見える範囲に限界があります。私や、tommy様、かな様が書かれているように、同じ現実を皆さんは違う目線で見ておられる。それらは、意見の違いこそあれ、立派な意見です。そしてそこから見出される重要な要素は、一人の人は、世界の全てを見られるほどの広い視野は持てないということだと私は思っています。即ち私が書いた記事に、かな様が、コメントされ、tommy様がコメントされ、そうやって紡がれることで、3つの意見が一つの記事になるわけです。視野がある意味では、3つ重なるのです。もちろん、理解や合意が出来るかは別の話ですが、少なくとも他人の広い視野を共有できます。


そういう要素が、人と論じるということですが・・・その論じるもととなるのが、情報です。日本人である我々が最も影響を受けるのは、日本語の映像や音声、データ、紙面だと思うのです。テレビのニュースや新聞のニュースなど、見るに値しないと公言する人でも、ネットのニュースは読むはずです。

その大半は、時事、朝日、産経、毎日、日経、読売などの記事であり、テレビでも流れるニュースです。その時点で、実はもうテレビと変わらない面はある。違いは、コメンテーターがいるかどうかですが・・・それはTwitterなど埋め込み型のSNSがフォローしたり、Yahooなどポータルならオーサーが補足するでしょう。

さらにネットではその先の要素もあります。
自分の好きな情報を、ネットで集めるという特性です。もし、一定の年齢からずっと、そればかりに流されたらどうなるでしょうか?今ネットでは、議論の沸点が低い人もおり、議論における解釈の違いや、意見の食い違いを、批判と捉えてしまい、この人とは意見が合わないと決めつける人も多いですから・・・。


例えば、インターネットでは、産経は正しい、産経は右だとか、朝日が左だとか、ねつ造だとか言っていますけど、それを実際に購読して読んでさらに、他の全ての新聞社や海外の新聞社も読み比べて判断していますか?ということを聞けば、きっと多くの人は口を紡ぐでしょう。

そこには、過去に朝日が行った不正記事の事件があったり、産経新聞社が韓国系の記事や政権関連の記事を扱うからそう思うだけかもしれない。海外記事から見れば、日本のどの記事もどうなのという点はありますし、もちろん日本の記事の方が海外の目線より日本らしいケースもある。

そしてここ数年見えるのは、ネットとの融合と称している行動です。
実は日本の情報メディアが目指しているのは、その沸点の低い人々に対して、如何に気に入られる報道をするかに移っているのではないかと、私は見ています。だから、コメンテーターも芸能人でいける。ニュースの内容も、半分が芸能とスポーツでOKになり、後は最近のトレンドとして商品のCM(もうニュースではない)をする。

そして、その延長に進むために、今メディアはSNSを活用してという記事を増やします。本来それは特にニュース報道については、過度に進めてはいけない禁忌です。

その理由は、主要なニュースしか報道しないかまたは、本来報道機関が足を運んですべき真実の追究を、止めてしまう恐れがあるからです。SNSで話題になったニュースとか・・・ネットでのエンタメや面白ニュースを除けば、たいていは主要メディアが一番報道したニュースが中心です。そして、SNSで話題になったからさらに報道すれば、その時間に使えたはずの別のニュースが消えていく。だから、俯瞰するはずが、どんどん視野が狭くなる。ネットを例え使っていない人でも・・・今日本で現実に起きているのは、そういう現象だと思うのです。

結果的に、本来は主要にあるべきものが、徐々にずれて視聴率だけが重視されはじめているのではないかと、私は危惧しています。もしそうだとすれば、自己責任論より、早晩日本は拙い状況に陥るでしょう。本来、報道は資本も重要ですが、その前にあるより多くの俯瞰した事実を伝えるという役割を失います。外野のコメントやネットの人気に毒されたニュースが増えていくことになります。

確かに災害情報のように、こうすれば助かる。こういう災害に繋がる規模といった報道が、人の知を伸ばし自己対策も進む一方で、同時進行で本来重視されるものが、誰の目にも触れずに密かに蝕む社会がやってきていることになりますから・・・まるで、家の中は綺麗だけど、実は土台にシロアリが住み着いて気が付いたら、家が倒れるという状況になってもおかしくない。

その先に、待っているのが・・・自己責任なのではないかと思うのです。

イタリアの災害は、この記事を書いた時には、各国が扱う大ニュースでしたが、日本だけはそのとき違ったのは、はっきり言ってショックでした。アフリカ投資など、お金だけが土台ならそれでも良いのですけど、金の切れ目が縁の切れ目でしょうから・・・ね。そう、金の切れ目が縁の切れ目です。

確かに、それは報道の姿勢が、視聴率という金であることを考えれば正しいのです。そして、金で動かせると思えば、金がある日本人は、どこか金さえあれば、または金がない責任にすれば、○○がないのは○○のせいと他人事に出来ます。

その時に、他人事にする理由が、あの人はこんな人である。だから、あの人の自己責任だと決める。自分が悪くても、相手の自己責任にすれば、楽ですから・・・。
結局そういうことかなと思うのです。今日2016年8月31日にもう一つ、青森の自殺した少女の記事を書きますけど、苛めも結局は、ちょっとした感情のもつれを、過度に協調した人が、「あいつはこんな人」からはじめたイメージで大きくする。


全てを俯瞰できない我々は、結局情報を日本語に頼っている結果、不甲斐ない情報媒体に縋り、狭く閉塞し、いつしか都合の良い自己責任を相手に押しつけ、自己責任論が悪いと言うようになったのかもしれない。これは、既に日本だけで進行している話ではなく、主要言語として世界で使われることが多い英語圏のイギリスや米国、ドイツ、フランスなどでも始まっているとされますが、日本はかなり先を進んでいるだけかもしれませんが・・・。

社会は、より広い視点で人と情報を共有し、相互扶助をした時にはじめて、俯瞰できると私は思っています。自己責任という言葉は、そもそも自分に自責の念(社会通念上の倫理)があり、そうしつけられてくれば、他人に言われなくとも発動します。しかし、それがなく悪事を侵せば発動せず裁かれる。本来はそれだけのことですけど、あいつの自己責任と言うことで、それが自分を守る免罪符に使われているように見え、それを助けているのは俯瞰して物事を見るための幅広い情報が明らかに減り始めていることではないかと思うのです。少子高齢化で人口も減り始め、単一言語、ほぼ単一人種の国家が持つジレンマかもしれません。

多様性があることを、人が知らなければ人との協調性はなくなるのですけど・・・。














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内 容 ニックネーム/日時
イタリア政府から日本への支援要請は今のところ無いと思います。国内や周辺諸国で支援しているのでは?熊本地震でも、最初は個人からの支援は受け付けていませんでした。個人の車が何台もつめかけると渋滞が起きる為です。中国の四川地震では、中国政府は人の支援はいらない、物資支援をしてほしいとの事でした。
かな
2016/08/27 14:52
tommyと申します。よろしくお願いいたします。気になる記述がありましたので、コメントさせていただきます。
「震度」なのですが、イタリアには「メルカリ震度(la scala Mercalli, the Mercalli scale)」といわれる震度等級があり、実際によく使われています。これは震度を12等級に分けるもので、地震学的にも実践的にもよく出来たものです。名前でなんとなくわかるようにイタリアで考案されたものですが、大変よくできたものなので、世界的には、地震多発地帯も含めてこちらが世界標準です。日本式震度は、日本と台湾のみのローカルなもので、これを明示する際には"shindo"と敢えて書かれることが多い。
ただし、海外の地震の報道の引用であっても、日本国内での報道の場合、メルカリ等級は完全に削除されるのが通例のようです。これは、単位の問題で、メルカリ震度の数字がお日本式震度より大きく出るため、無用の混乱を避けるためのように思われます。日本の報道記事で「イタリアの○○市で『震度10』」なんて書いたら、無用の混乱を招くばかりか、定着した日本式震度の感覚に対する深刻な影響も招来しかねませんから。
tommy
2016/08/30 21:27
続きになります。
国内報道の極端な貧弱さについては、私も同意します。ただ、日本人の場合、地震に関するリテラシーが極めて高いので、マグニチュードが対数表示であると正しく理解することも(つまり、6.1と6.5では大違いであること)も、具体的マグニチュードと震源の深さを知れば、ある程度の揺れの状況の予測をつけることも、学者でない多くの人が可能です。
その上で、やや荒っぽい表現をすれば、「この程度の地震で被害を受けるなら、おまえらの建築水準や社会制度が悪いのだろう(=だから勝手に被災して苦しんでも仕方ない)」という、最近の日本人に大変に強い「自己責任論」が見え隠れするようにも思います。マスコミと(ネットに代表される)マスコミのカウンターとしての国民世論双方が、今回は平仄を揃えてこの結果に至っているのではないでしょうか。
日本人はこの手の自己責任論を、しばしば誇らしげに語りますが、この感覚は世界的に見れば、必ずしも喜ばしい倫理観ではありません。我々は、この感覚において世界に稀に見る冷淡な国民であると判断されても、(「理由を求めない相互扶助(喜捨の精神)」を倫理観の根底に置く諸外国の多くの国民の倫理観からすれば)致し方ないところがあります。
tommy
2016/08/30 21:37

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